私的評価
近藤史恵著『昨日の海は』をAmazonのPrime Readingで読みました。近藤史恵さんの文章は、いつ読んでもスッと心に入り込んでくるような自然さがあります。難解な言い回しや無駄な修飾が少なく、それでいて情景や登場人物の感情がしっかり伝わってくる。その巧みさゆえに、読んでいてストレスを感じることがなく、気づけばページをめくる手が止まらなくなっている、そんな魅力にあふれた作風です。
今回読んだ『昨日の海は』も例外ではなく、静かで丁寧な筆致で物語が紡がれていくのに、どこか胸の奥をざわつかせるような不穏さが漂い続けます。決して派手な展開があるわけでも、驚きの結末が待ち受けているわけでもありません。にもかかわらず、最初の一行から最後の一行まで、不思議と目が離せず、一気に読了してしまいました。
物語の中心に据えられているのは、主人公の祖父母の“心中”という出来事。なぜ二人は心中を選んだのか。その動機や背景が少しずつ明かされていくのですが、正直に言えば、その理由については完全には納得できないまま読後を迎えました。もちろん人の心というのは、論理だけでは割り切れないものですが、それでも“そんなことで?”と引っかかる部分が残ります。むしろその引っかかりこそが、この作品の余韻なのかもしれません。
とはいえ、それも含めて“近藤史恵ワールド”の魅力なのだと思います。物語の中で明確な答えを与えすぎない。登場人物の感情をすべて説明せず、余白を持たせる。その余白をどう受け止めるかは読者次第であり、それによって読後感も人それぞれ違ってくる。この「読者に委ねる余韻」が、読後もしばらく心を離れず、何度も思い返すことになるのです。
『サクリファイス』など自転車ロードレースを題材にしたシリーズとはまったく毛色の違う作品ですが、近藤史恵さんの文章の“静かな強さ”は、ジャンルを超えて一貫していると感じました。派手さはなくとも、深く心に残る一冊です。
★★★★☆
『昨日の海は』とは
内容紹介
いつも通りの夏のはずだった。その事件のことを知るまでは…25年前の祖父母の心中事件に隠された秘密とは。残された写真、歪んだ記憶、小さな嘘…。海辺の町を舞台とした切なくてさわやかな青春ミステリー。
著者紹介
近藤史恵[コンドウ フミエ]
1969年、大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒。93年、『凍える島』で鮎川哲也賞を受賞してデビュー。2008年、『サクリファイス』で大藪春彦賞を受賞。</p>著書に、『タルト・タタンの夢』のほか、『天使はモップを持って』『あなたに贈る×(キス)』『昨日の海と彼女の記憶』『みかんとひよどり』などがある。
紀伊國屋書店
感想・その他
近藤史恵さんの名前を初めて認識し、小説を手に取ったきっかけは、やはり自転車ロードレースを題材にした『サクリファイス』でした。マイナーとも言えるこの競技を舞台にした物語でありながら、読み始めてすぐにその世界に引き込まれたのを今でも鮮明に覚えています。一般的な小説読者にとって、自転車ロードレースは決して馴染み深い題材とは言えません。むしろ、専門的すぎて敬遠されがちなジャンルかもしれません。それにも関わらず、『サクリファイス』は大藪春彦賞を受賞し、本屋大賞では第2位にまで輝いた。これは、作品自体の完成度の高さとともに、近藤史恵さんの筆致がどれだけ広い読者層の心を掴んだかを示す何よりの証だと思います。専門的な知識を知らずとも、物語に没入できる。レースの駆け引きや選手たちの心理、孤独、葛藤——それらが読みやすい文体で描かれつつも、決して浅くない。むしろ、知らず知らずのうちに「もっと知りたい」と思わせてくれる導線がしっかり張り巡らされています。
シリーズは続編の『エデン』や『サヴァイヴ』など、いずれも秀作揃いで、それぞれが主人公・白石誓の視点を通して、人間の複雑な感情や成長を描き出しています。単なるスポーツ小説にとどまらず、人間ドラマとしても非常に読み応えがあり、「ロードレースに興味がない」と言っていた知人に薦めたところ、むしろ夢中になってしまったという例もあるほどです。
余談になりますが、最初に『サクリファイス』を読んだ時、私はてっきり著者の近藤史恵さんは男性だと思い込んでいました。ハードな競技の世界、男たちの汗と情熱、競技の厳しさや過酷な現実をリアルに描いていたこともあって、そこに“女性作家”の存在を重ねることができなかったのです。しかし、その先入観は見事に裏切られました。むしろ、女性作家だからこそ描けた繊細な心理描写や、競技の外側にある人間関係の機微があの作品群にはあったのだと、後になって納得しました。
そんな近藤史恵さんの新たな作品『昨日の海は』は、これまでのシリーズとはまた異なる空気を纏った作品です。タイトルからしてすでに余韻があり、どこか切なさを感じさせます。作品の詳細については別の機会に語るとして、近藤史恵さんの多彩な表現力とジャンルを超えた語りの力に、あらためて感嘆した一冊でした。
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